どれほど高度な技術やシステム、詳細な規則を導入しても、それを実際に運用する「人」と「組織の文化」が正しく機能しなければ、強固に見える防御壁も一瞬にして無効化してしまいます。
2026年6月に明らかになった、陸上自衛隊中部方面総監部におけるUSBメモリのマルウェア感染事案は、まさにこの課題を浮き彫りにしました。防衛省の発表によると、当該USBメモリは能登半島地震への対応に際して物品登録・利用されていたもので、例外なくウイルスチェックを実施する規則が定められていました。しかし実際には、USBメモリ使用前に義務付けられていたウイルスチェックの手続きが実施されていなかったことが判明し、一部報道によると、約1年間にわたりマルウェアに感染した状態で接続され続けていたといいます。本インシデントを受け、総務省が地方自治体を対象にUSBメモリの利用実態調査を行うなど、影響は全国の公共機関へ波及しています。
KnowBe4 Japanは、本インシデントをすべての組織が「自分事」として向き合うべき構造的な課題と捉えています。なぜ組織において「形だけのルール」以上に「現場との対話」と「セキュリティ文化」が重要であるのか、その背景と改善に向けた提言をまとめました。
自衛隊や地方自治体といった公共機関における今回の事案は、「ウイルスが検知された」という単純な話ではありません。
自衛隊の作戦行動や自治体の住民情報を扱うネットワークは、インターネットから厳格に分離された「クローズ系システム」です。本来、外からのサイバー攻撃が届かないはずのこの「聖域」に対し、USBメモリのような物理媒体は、マルウェアを直接流し込む最も一般的な侵入経路の一つとなります。実際、今回の事案で使用されていたUSBメモリは、報道によれば正規品を装った偽装品だったとされ、サプライチェーンの入り口の段階ですでにリスクが持ち込まれていた可能性を示しています。
今回の自衛隊の事案では、幸いにもマルウェアは自己増殖にとどまるものでシステムへの影響はなかったと発表されています。しかし「クローズ系ネットワークへの侵入を許し、約1年間気づかなかった」という事実が示すリスクの本質は、マルウェアの種類だけでは語れません。仮にこれが高度な標的型攻撃であった場合、OSの初期化だけでは完全に除去できない領域(マザーボードのBIOS/UEFIや周辺機器のファームウェア)への感染も理論上あり得ます。その場合、汚染がどこまで広がっているかを100%安全だと証明することは技術的に極めて困難になります。組織は該当するすべてのIT機器の物理的な全面廃棄・刷新という判断を迫られる可能性があります。
また、このリスクは公共機関だけの話ではなく、マウス、プリンター、ルーターといったあらゆる周辺機器の製造・調達プロセスのどこかで、すでにマルウェアが仕込まれている可能性はゼロとは言えません。他の自治体や一般企業が「自社の調達したすべての機器は100%安全だ」と言い切れるでしょうか。もし万が一そうした問題が発覚した場合、調達プロセスまで遡って「すべての機器に異常がない」と完全に証明することは極めて困難です。そしてそれが証明できないとなれば、最悪の場合、PCをはじめとするすべてのIT機器を物理的に廃棄・刷新せざるを得ないという、事業継続を揺るがす甚大な事態へと発展します。
「汚染された疑いのある機器をすべて物理破壊・刷新する」という措置は、決して絵空事ではありません。実際に、そこまで踏み込みかけた事例が存在します。2013年、米国商務省の経済開発局(EDA)では、実際にはごく一部の端末に限られていた感染を「持続性の高いマルウェアによる脅威」と誤認し、IT機器を物理的に破壊する方針を決定した事例があります。実際に十数万ドル相当の機器が破壊され、さらなる破壊も予定されていたほどでした(最終的には予算の都合で中断)。なお、この対応について米商務省監察官(IG)は後に「明らかに不要だった」と結論づけており、ここで伝えたいのは、不確実性への恐怖が組織をここまで極端な判断に導きうる、という点です。
では、こうした事態をそもそも防ぐためには何が必要なのでしょうか。「ルールをさらに厳しくすること」でしょうか。ルールを厳しくするだけでは、「どこまで汚染が広がっているかわからない」という不確実性は解消されません。その不確実性を根本から減らすためには、現場が日常的にリスクを感知・共有できる組織の仕組みと文化が必要です。しかし現実には、ルールを増やすほど組織はその限界に近づいていきます。
なぜ、ルールを増やすだけのアプローチには限界があるのでしょうか。 現代のビジネス環境においては、システムや環境の複雑化、そしてビジネススピードの加速に伴い、「一度設定したルールやセキュリティテクノロジーが、現在の業務実態に見合わなくなる(業務の足かせになる)」という現象が頻繁に発生します。
自衛隊の現場も、災害対応という極限状態や人手不足、業務過多に直面していました。システムやルールが使いづらく、業務のスピード感を阻害する場合、現場は悪気なく「業務を回すため」に抜け道や例外的な運用を探してしまいます。
ここで最も警戒すべきは、インシデントへの対策を単なる「ルールの厳格化やプロセスの見直し」という分かりやすい手段だけで終わらせてしまうことです。上から一方的に規律を厳しくするだけのアプローチは、結果として「ルール通りにやると業務が回らない」というジレンマを生みます。その結果、現場は再び独自の判断で例外的な運用を行ってしまい、しかもそれが表に出にくくなるという悪循環に陥ります。ルールを強めるほど、現場で実際に起きている「リスクのある行動」を見つけにくくしてしまうことこそが、現代の組織が直面する大きな問題です。
ルールの形骸化やリスクの潜在化を防ぐためには、「管理と禁止」の古いパラダイムから脱却し、環境の変化に合わせてルールを常に微調整し、経験から学び続ける能動的なアプローチが必要です。
トラブルが起きないのは、ルールが完璧だからではありません。現場のメンバーが、急いでいる緊急時であっても安全に物事が進むよう、状況に合わせて柔軟に「調整」しているからです。このリアルな調整能力こそが、現場を破綻から救っています。ルールを一方的に押し付けて監視するのではなく、「現在のルールが業務のスピードや利便性を阻害していないか」を現場へ定期的に問いかけ、ヒアリングや実態調査を行う仕組みが必要です。現場の声を能動的に集めることで、実務と乖離した「無理のあるルール」をいち早く検知し、システムやプロセス側を柔軟にアップデートしていくサイクルを確立します。
単に「○○するな」という禁止事項を並べるのではなく、「こうやって工夫したら、安全かつスムーズにうまくいった」という好事例をもっと取り上げ、共有すべきです。その方が周囲も真似しやすく、前向きな危機意識の醸成や、主体的な対応への強い動機付けにつながります。失敗やヒヤリハットを隠蔽するのではなく、「組織全体の貴重な学習機会」として共有・活用することで、組織全体の適応力(レジリエンス)を高めていきます。
規律を一方的に詰め込む教育ではなく、現場との双方向の対話を通じて、「なぜこのルールが必要なのか」「どう行動すべきか」の納得感を深めます。これにより、現場の職員から組織の長に至るまで、日々の業務のあらゆる局面において、状況に応じた的確なセキュリティ判断を自発的に取れるよう意識の変容を促します。
チェルノブイリ原発事故の調査報告において「安全文化(Safety Culture)」の欠如が重大な要因の一つとして指摘されたのと同様に、現代の組織にとっても、技術やルール以上に「セキュリティ文化(Security Culture)」の醸成こそが真の中核となります。
バケツの穴を塞がずに上から水を足すような「ルールの厳罰化・禁止事項の追加」を繰り返すフェーズはとうに過ぎています。
変化し続ける業務環境に対応するためには、組織のトップから現場の隅々に至るまで全員が、ルールを盲従するのではなく「セキュリティを重視した正しい判断と行動」を自発的に取れる文化が必要です。現場との能動的な対話を通じて生きた対策をアップデートし続け、経験から学び続ける「セキュリティ文化」を築くことこそが、これからの時代に求められる最も確実な防御壁となります。
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